持っていたファイルが、ばさばさと手から滑り落ち、廊下に散らばった。
震える唇が彼の名を形作ったけれど、結局声になることはなかった。そんな私を知ってか知らずか……知らないふりをしていたいのか、彼は一定の距離を保ったまま、にへら、と表情を崩してみせる。
「よ! リナリー」
すちゃ、とあげられた手を見つめながら、静かに奥歯を噛み締める。彼の動きのぎこちなさが、じわりと口内を苦くしてゆくようだ。何だか堪らなくなって、床に散らばったファイルを飛び越えて駆け出した。距離が縮まってゆくことによって鮮明になってきた血や傷痕、ぼろぼろの団服を見て、結んだ唇は開き、とうとう声をあげて、しまう。
「ラビ!」
こんな時でもいつものように笑おうとする、その心を思うだけで苦しかった。
あの日、ラビを見送った日のように、抱き着こうと手を伸ばしたのだが、
「ストーップ!」
眼前に突き出された手によって、制止をかけられてしまった。
彼に触れるはずだった手が、抱きしめるはずの腕が、虚しく宙をかく。
「……ラ、ビ?」
どうして、という気持ちを込めて名を呼べば、やはり困ったように彼が笑った。私の眼差しは、さぞ途方に暮れていたことだろう。
「嬉しいけど、抱き着くのは禁止さ」
そうして、彼の言わんとしていることを悟ると緩く首を振って否定する。
「私、気にしないよ」
「俺が気にすんの。だからダーメ」
「でも、」
「リナリー」
食い下がる私の名を呼ぶラビの眼を見て、咽喉が引き攣った。
心を支配するのは、紛れもない恐怖だ。呆れられ、嫌われることへの。
「な、に?」
声になりきらなかった問いを、悲しそうに受け止める。そんな表情をさせたいわけではないのに、いつも私は失敗してしまう。
これだから、駄目なのだ。これだから私は、あなたの隣に並べない。
「俺、ちゃんと一番にリナリーの元へ帰って来たさ。本音言うと風呂入って着替えもして、いつものカッコイイー状態の俺で逢いたかったけど、リナリーとの約束が優先だったからさ……だから、わかって?」
ああ、本当にこんな時まで、彼はずるいままだ。ずるくて、やさしいまま。
だから私は、声を失ってしまう。困らせる言葉しか浮かばないから、何も言い出すことが出来ないの。
「リナリー……」
俯いた私の頭上に、静かな声が降る。大切に紡がれる己の名が愛しくて、どこかさみしい。
無意識に手を伸ばしたりしないように自分の団服を思いきり握りしめていると、ラビの手が恐々と此方へ伸びてくるのがわかった。その手のぬくもりを期待しなかったといえば、嘘になる。
だけど、触れる直前弾かれたように遠退いていく指先を見つめて、私は、今この瞬間を諦める決心がついた。
此処でラビに抱き着くことは容易いだろう。
けれど、もしそんなことをしてしまったら、彼はもう二度と私との約束を守ってくれないかもしれない。想像だけで、ぞっとするのに、それが現実になったとしたら、堪えられるかどうかわからない。
今を望み、これからを捨てる覚悟など、生憎と持ち合わせていない。
「……ごめんなさい」
今にものばしそうになる手を強く握りしめ、くるりと背を向けた。遠くで放置されたままのファイルを拾いに行くためだ。
なのに、リナリー? と静かな声が私を呼び、踏み出しかけた足が止まった。
感情の読めない声だ。私の心を空虚にし、無性に寂しくさせる声。あなたの体温を求めたくてしょうがなくなる 声。
そうだ。まだ言わなくちゃいけないことが残っている。
本当は名前じゃなくて一番に言いたかった言葉が。
「ラビ」
「ん、」
応えてくれる優しい声に、ラビの思いをひしひしと感じる。私を思いやってくれているのが嫌になるぐらいわかるから……だったら、私はそれでじゅうぶんだ。
そうでしょう? リナリー。
「ラビ。おかえり、なさい」
大切に大切にしすぎて、つっかえた言葉。でも確かに、あなたへ伝わったよね?
見開かれ、丸くなった瞳が今にも泣きそうに細められてゆくのを愛しさと切なさで見つめた。
本当は手を伸ばしたかった。その頬に触れたかった。でもルールを侵すつもりはないの。
だから私は、微笑った。きっと今、私もあなたと同じ表情をしているに違いない。
「た、だい ま。リナリー」
くしゃりと歪んだ笑顔は、あたたかにこの心の隙間を埋めていった。
I'm home
( さあ、早く傷の手当をしましょう。報告は、あなたを抱きしめた後で )